齋藤守名誉会長を偲んで
                                      流形美術会  会長 宮下 優一
この貴重な時間を頂き故人を偲ぶ想い出や、人となりなどのエピソ-ドを交えて、皆様会員
各位の代表としてご哀悼の意を申し述べさせて戴きます。
また、参与であった石村五十子さんが3年前に死去され,今回遺作展示されました。齋藤名誉会長
と同時期、副会長の重責を共に働き戴きましたこと合わせてご哀悼の意を述べます。
齋藤名誉会長は今年の5月27日安らかに永遠の眠りにつきました。93歳の生涯でありました。
斎藤名誉会長は創立者 東武旻氏の右腕として尽力され今日の流形美術会の創立と継続発展
に大きく貢献され、その功績は周知の処であり、流形美術会の歴史そのものであります。
その創立以来のお二人の歴史的エピソードを紹介しますと、                                                
まず流形展の旗揚げは、1950年(昭和25年)会場は日本橋の「丸善画廊」である。
昭和25年といえば戦争によって荒廃した国土の復興が始まった頃です。国破れて山河ありと
いう時代にグル−プ展開催の意義は大きく、以後創立会員諸氏の長き歳月の志と並々ならぬ
苦労努力によって今日の全国公募展になりました。その先頭に立ち小さな団体であっても流形の
魂と言うべく独自性や特色を最大限に、今日の第67回展へと舵取り発展に尽力したのです。丸善
東京はまだ空襲による焼け野原の光景が残っていて、応急補修して営業を始めたばかりで
あった。丸善もご多分にもれず、階段は焼けたコンクリ−トでデコボコ、それでも一流デパ−ト
の画廊で旗揚げできたのは幸運といえよう。
この第1回展メンバ−に東代表以下齋藤名誉会長当時新制作展、息女東恵美(光風会会員)
柚木女子美大元学長(国画会会員)他10数名のそうそうたる作家が出品。
画廊は1回のみでその後は、日比谷公園内にある日比谷画廊に移り、そして銀座松坂屋デパ−ト
の向側、老舗タカゲンの画廊にうつります。それが第10回展、昭和46年からしばらく続きます。
この銀座中央にタカゲン画廊オ−プンしたての頃、2週間齋藤守個展が開催され新聞にも掲載
され大変衝撃を受けたこと鮮明に思い出します。またこのタカゲン画廊で東代表の息女、東 恵美
さんの女子美大の同窓生による「あをい会」が結成され、その会員の中に石村五十子さん
がおり、のちの、流形の重要メンバ−として活躍していくことになるのです。
数年後会員数、作品も充実し会場模索し15回展を竣工したばかりの神奈川県民ホ−ルで開催
出来ました。そして6年間はタカゲン画廊との交互開催となるのです。
いよいよ東京都美術館進出は1977年(昭和52年)第21回展です。これには大変な折衝があったと
小史に記されておりますが、何とか難関クリア−して実現しました。しかし問題が待ち構えていたの
です。それは進出当初、毎年、抽選で抽選漏れ苦難を何回かと味わいその都度、タカゲン画廊、
神奈川県民ホ−ル、都労働会館ギャラリ−など会場探しがネックになりました。石村五十子参与が
初出品したのがこのころ昭和54年24回展で初受賞しました。小生が入会したのも同時期で第25回
展でありました。当時を思い出しますと出品者40人前後、一人2〜5点総数80点程度で作品間隔
が1M以上の在りました。斎藤さんは100号とクロキ−デッサン20〜30点近く並べたよと、笑って
酒のつまみに話されていたことが昨日のことの様に浮かびます。
さてこの後の経緯は、紆余曲折たくさんの困難、難題が待ち受けてそれらを真正面から取り組み
克服して行く姿、歴史をお話ししたいのですが、時間の関係で後半はポイントのできごとのみに
しぼります。
初代東代表が亡くなられたのは、昭和63年享年88歳、第38回展が遺作展示となりました。
2代目代表江口益巳氏が就任後、平成元年第39回展より写真部が本格的流形展に発足された。
さて、斎藤名誉会長が流形会の代表になられたのが、江口益巳氏の後,平成7年第45回展より6年
間です。また個人的ライフスタイルは,30代で広告代理店を立上げデザイナ−兼取締役と地元
川崎美術協会でも運営委員長を歴任し,相談役としてまさしく八面六臂の活躍でありましたした。
斎藤名誉会長が残された、仕事デザインのほんの一部分を振り返ってみますと、出品目録の原型
表紙から活字記事内容すべてを変更、流形展看板ポスタ−、ロゴマ−ク、DMハガキのデザイン等
そしてこの会報ですが、原稿用紙一枚に手書き、コピ−しただけのごく簡単なものでした。
これをご自身が会報委員になり誌名を「流形」と名付け現在のホ−マットにして81号を立上
ワ−プロで原稿を打ち、100冊以上コピ−して製本し、宛名書き、発送まで一人でやるのは大変
な大仕事であったと回想しています。
まだまだ、たくさんの想い出、故人の人柄、家族への愛情等々話すことは尽きません。短い時間
の中でしたが皆さんと、在り日の名誉会長と石村五十子さんを偲びことがでましたこと感謝申し上げ  
                                              ご哀悼の意を終ります。